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小平ふるさと村

 

小平市歴史 ~振袖火事~

小平市歴史 ~振袖火事~
 
=振袖火事=
小川の農民には苦しい開墾仕事のかたわら、石灰伝馬継の仕事が課せられていたのです。
小川村の置かれた理由は、先にも述べたとおり、青梅の茂木などから江戸に運び出される石灰の運搬の役割を果たす為に開かれた宿であったので、小川の農民たちは伝馬の仕事をするために、荷馬(にうま)の飼育を義務付けられ、交代で石灰の運搬にあたったのです。
小川村が、開かれた翌年、明暦(めいれき)三年(1657)江戸本郷丸山の日蓮宗本妙寺からでた火は、大名屋敷を焼き払い、江戸城本丸を焼失させ、大天守閣(だいてんしゅかく)もその時焼け落ちたのです。
 
振袖火事とも呼ばれる所以は以下のような伝承があるためである◎
 
 
=本妙寺失火説=
ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖 に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋(ききょうもん)、柄行(がらゆき)は荒磯の波模様に菊。
そして、恋の病に臥せったまま承応(じょうおう)4年(明暦元年)1月18日(1655年2月22日)、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受不施(ふじゅふせつ)の仕来りによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。
その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日(1656年2月11日)に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年の1月18日(1657年2月28日)に17歳で亡くなった。
イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経(どっきょ)しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという。
   
=幕府放火説=
実際の火元は老中(ろうちゅう)・阿部忠秋(あべただあき)の屋敷であった。しかし、老中の屋敷が火元となると幕府の威信(いしん)が失墜(しっつい)してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにし、上記のような話を広めたのだとする説。
これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、大火以前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたことなどを論拠(ろんきょ)としている。本妙寺も江戸幕府崩壊後はこの説を主張している。
「多摩の歴史」より
 
※ミステリーなお話です、皆さんはどちらを事実だと思いますか?
もうすぐ春です、火に気をつけて、寒さを乗り越えましょう。
 
 

小平の歴史 ~小平の地名の起こり~

小平の歴史 ~小平の地名の起こり~
 
=小平市の地名の起こり=
1.小平村の誕生とその名の起こり
小平市の地名の起こりは、明治22年(1889年)4月17日、小川村・小川新田・大沼田新田・野中新田興右衛門組・鈴木新田・廻り田新田 を合わせて、新しい村が出来、村の名を付けるため各新田から代表者 が選ばれて集まり、色々と議論したのです。
ある人は、七ヶ村の集まりであるから、七つの里としてはどうであろうか?と提案しましたが、この地は小川九郎兵衛さんを中心に一番最初の開拓村であることを考えて、平らな土地柄にちなんで
 
「平(だいら)」―関東甲信越地方では、平地や、大きな盆地をダイラと 呼びます―をとり、その上に「小川村」の「小」を付けて、
 
「小平村(こだいらむら)」と名付けられたのだと伝えられています。
 
村が生まれた時の役場は、小川新田熊野宮神官、宮崎久榎屋敷のなかの書院におかれました。当時の役場は、24畳(12坪)の書院と、四畳半(2坪強)小使い室だったのです。
このように、明治憲法が発布された年に発足しました小平村は、誕生してから4年目の明治26年(1893年)、三多摩(北・南・西) 地域が神奈川県から東京府に編入されるとともに、「東京府北多摩郡小平村」となったのです。
そうして、大正元年(1912年)、木造平屋の村役場が、現在の中央公民館のところに出来上がり、長い借家住まいの時代も ようやく終わったのです。
 
2.村から町へ
昭和16年(1941年)ごろから近くの村の多くが村から町になるのに刺激されて、村の人々の間から、村から町への声がささやかれ始め、当時の小野熊太郎村長を中心として、町制施行の手続きがとられ、第二次大戦昭和19年(1944)2月11日に小平村から小平町へとなったのです。
 
3.小平市の成立
昭和20年(1945)8月15日終戦を迎え、暗い悲しい戦争の時代が終わり、新しい日本の建設が始まるとともに、新しい街づくりが開始されたのです。
昭和22年(1947)日本国憲法が施行された年、小平町長選挙と町議会議員選挙が行われ、明るく住みよい民主的な街づくりの第一歩が踏み出されたのです。
その後、昭和29年(1954)小平町、国分寺町、小金井町の合併による市制を施行する決議が町議会でなされ、その方向に向かって各町との話し合いが進められましたが、一部の反対もあり、これは実現されませんでした。
昭和35年(1960)の国勢調査において、人口52,923人で、当時、三多摩各町村のうちでは、人口は一番多くなり全国でも、第二位の大町村となったのです。これによって、町制から市制への手続きがとられ、昭和37年(1962)10月1日、東京都知事は、小平町の申請を受けて、小平町を小平市と認め、ここに全国で558番目、都下では11番目の小平市が誕生したのです。
 
 

小平の歴史 ~新田開発前の小平~

小平の歴史 ~新田開発前の小平~
 
=新田開発前の小平=
1.小平最古の住民たち
小平の地は、西北は入間川、東北と東は荒川、南は多摩川の沖積低地によって限られた武蔵野台地のほぼ真ん中にあります。
 
武蔵野台地は、今から何十万年前以前、つまり、地質学の上で洪積世といわれる時代に、当時、盛んに活動していた富士山の火山灰が降り積もってできたのです。この火山灰がその後、風化して、赤褐色の赤土になり、これを関東ローム層と云います。
 
この関東ローム層の降り積もっていた時代には、これまでは全く住めなかった時代であると思われていましたが、昭和24年(1949)の夏、アマチュア考古学研究者として有名な相沢忠洋さんが、群馬県新田郡笠懸村岩宿遺跡の赤土のなかから、数個の石器(石でつくられた道具)を見つけ出したのです。この石器が土器(素焼きの陶器)と一緒に出土したことが判り、それまで日本で一番古い時代の縄文文化より更に古い今から一万年以前の石器のみの文化(先縄文文化)時代のものであることが判ってきたのです。
この発見が、発端になって、赤土(関東ローム層)の中の遺跡の追及が開始され、小平市の周辺の小金井市や国分寺からナイフ・ブレイド(小刀形石器)をだす遺跡が発見されました。
 
小平市は、武蔵野台地の真っただ中であり、特に水に恵まれないところから、この種の遺跡はまったく存在しないだろうと考えられ ていましたが、昭和49年(1974)小学校件背湯工事の際、小平市鈴木町一丁目からナイフ・ブレイド(小型形石器)が出土する遺跡が発見され、現在発掘作業が行われています。
この鈴木遺跡に関してましては、まだ調査中ですから、詳しいことは、調査報告を待たなければなりませんが、この遺跡の発見によって、小平の歴史が、一躍、今から一万年以前にさかのぼることになり、小平の歴史の最初の一頁は、書き換えなければならないでしょう。
鈴木遺跡は、石神井源流の湿地帯を臨む大地の際にあります。当時ここは、武蔵野の中の唯一のオアシスだったのです。この泉に水を求めて多くのシカや猪のような動物があつまり、その動物たちを獲物とする小平最古の人々がやってきて、狩猟生活を営んで、ここに狩のためにキャンプをしたのです。
いずれにしても、先縄文文化時代の石器を出土する鈴木遺跡は、
今後、この時代の人々の活躍した跡が小平から発見される可能性のあることを物語っています。
 
2.古代から中世
古代の武蔵国の政治の中心は、武蔵国の国府がおかれた現在の府中であり、文化の中心は、武蔵国国分寺であったのです。
国府におかれた国衙(こくが)には、多くの建物が立ち並び、また武蔵国分寺は、天平13年(741)聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)によって、僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)が建立され、武蔵国の宗教、学問、文化の中心になったのです。
子の国分寺は、面積八町歩四方(八ヘクタール)にわたり、他の国の国分寺と比較すると、3~4倍の大きさであり、七重塔をはじめとして、講堂・金堂・中門を配し、その甍(いらか)をつらね、丹塗(にぬり)の建物は、草深い武蔵国の人々を驚かせたことでしょう。
 
この武蔵国分寺が建立された時代の小平について明らかにする手掛かりは、小平八小校庭遺跡です。
この遺跡からは、方形の竪穴式住居址(半地下式住居の跡)が発見され、その住居が、小平八小校庭に復元されて、当時の生活をしのばせます。
この住居をみますと、地表より50センチメートル程度の方形の穴をほり、このところを、今の農家の土間のように築きかため、更に穴を掘り、ここに柱を立て、梁を渡して草屋根を葺き下ろします。
 
この住居の一隅には、粘土で築いた竈(かまど)がしつらえてあります。
この住まいは、当時の人々の生活の場であり、これと同じ竪穴住居址は、武蔵国分寺の寺内の中から発見されています。
 
平安時代の終わりごろから、武蔵野の各地に荘園が出現し始め、それに伴って、武士も次第に集まって、党(武士団)を造りました。
この党の中でとくに有名な党を武蔵七党といいます。七党にも諸説ありますが、一般には、西・横山・猪俣・野与・村山・児玉・丹党を云います。
この武士団の中で、小平に関係の深いものは、狭山丘陵を中心とする村山・狭山・久米川・野口などの武蔵村山郷を本貫地とする村山党です。
村山党は、平忠常の子孫で、村山・大井・宮寺・金子・山口氏に分かれており、小平の地も、たぶん村山党の武士たちが、馬を乗り入れ、弓馬の術に磨きをかけていたところなのです。
 
3.鎌倉街道
鎌倉幕府は、源の頼朝が建久3年(1192)征夷大将軍に任命されて、正式に発足したのですが、まだ成立した直後は、将軍源頼朝と関東御家人(武士)を中心とする東国の地方政権でしかなく、何かと京都にある院・朝廷と対立することが多くあったのです。
そこで、幕府は、成立当初に、幕府の重要な支配地である関東地方をしっかり統合し、「すわ鎌倉の一大事」の時に御家人を一刻も早く、鎌倉に集められるように、鎌倉を起点として、四方に通ずる鎌倉街道を設けたのです。
その主なものは、上の道・中の道・下の道の三街道で、いずれも東相模の台地を超えて武蔵野に通じています。
この三街道のうち、上の道は、鎌倉化粧坂から藤沢市の北側を通過して、境川を北上し、東京の町田市付近から関戸に出て、そこから多摩川を渡り、分倍川原から府中、恋ヶ窪を経て、野口堀兼を通って上野国(群馬県)に通じています。
この上の道の街道が、小平を南北に通ります。鎌倉から来ると、上水本町から津田塾大学の東側を通り、鷹野海道を横切り、小川町二丁目付近で青梅街道と交わり、更に北上して小川、東からブリジストン工場を抜け、東村山の野口に達します。
この街道は、上野(こうづけ)、下野(しもづけ)と鎌倉を結ぶ唯一の道であり、鎌倉時代、多くの人々が往来しました。しかし、小川村が開かれる以前は、街道沿いには、人家などは一軒もなく、一面すすきに
覆われた荒野の中の一本道であって、当時の旅人は休むところもなく、のどが渇いて難渋したところだったのです。
この「まいまいず井戸」は別名「すり鉢井戸」ともいわれ、さし渡し20メートルから30メートル位の範囲をうず巻き状に地下水の湧き出るまで掘り下げる井戸で、武蔵野台地のように著しく水位の低いところにのみ見られる特殊な井戸で、水を汲む人は、このラセン状のところをぐるぐる廻って、地底におりて水を汲むのです。またこの街道筋で、小平市と東村山市が堺を接するあたりを「九道の辻」と呼ばれております。この「九道の辻」一角に、かつて一本の桜の老木があって、人々から「迷い桜」と呼ばれていました。
この「迷い桜」のいわれは、元弘3年(1333)新田義貞が、鎌倉幕府討伐のため、鎌倉街道を南下して、途中久米川(東村山)の戦いで北条軍を破り、これを追って「九道の辻」に差し掛かった時、道が分かれていたため、どの道が鎌倉への道か迷い、義貞は、この後自分と同じように迷うものがでては困ると考えて、鎌倉街道への一角に一本の桜の木を植えたのがその起こりであるといわれております。
しかし、このことは、記録には現れてきませんので、その真偽のほどは、明らかではありませんが、かつてこの街道を鎌倉へ向かって新田義貞の軍勢が蹄(ひづめ)の音高く進撃していったことは、
事実であったことであり、今は他の道に代わられ、静かな小道となってしまったこの街道も、建武(けんむ)中興(ちゅうこう)の際のつわものどもの夢の跡が残されているのです。
 

小平の歴史 ~小川村のくらし~

小平の歴史 ~小川村のくらし~
 
=小川村のくらし=
1.地割と住宅
武蔵野台地の新田村落は、いずれも整然と地割を行っていますが、小川村の場合も、村の中央を通る青梅街道に沿って南北に八間(15メートル)から七十間(120メートル)の間口に割られて、この間口を基準として、屋敷地、耕地の順で、青梅街道をはさんで、道路に直角に短冊形に区分され、この一区画が一軒の所有地となったのです。
まず、ここに住み着いた人々は、冬から春先にかけて吹きす
さぶ秩父颪(おろし)に悩まされたのです。
そこでこの風お防ぐ工夫として、屋敷の周囲に、ケヤキ・シイ・カシ・スギ等の木を植え、風よけにしたのです。この屋敷森を今では「キモリ」と云っています。
小川が開かれた時の住居は、今は残されていませんが、名主の小川家の文書をみますと、柱は栗の丸太を使い、土地に直に穴を掘って埋めたて、床は竹の簀子(すのこ)か籾(もみ)を地面に積み上げたものの上に莚(むしろ)を敷き、壁は土壁でなく、藁(わら)で囲っただけの粗末なもので、部屋数も小さなもので、土間と板の間だけで、大きいものでも三室くらいでした。
このように開発当時の住居は、かなり貧しいものだったのです。

2.農作物と肥料
小平は、当時風がふけば黄塵となって舞い上がる荒地であり、その開拓は並みたいていのものではなく、入村はしてみたものの、食えなくなり、村を逃げ出したり、妻子を身売りしたものもあったのです。
このような苦しい開拓生活のなかで、農民たちは、次第にこの赤土に適する作物を見つけ出し、元禄時代には、栗・稗・里芋・そば・陸稲・大根が小川村の主要作物となっていったのです。
もともと水が乏しく、畑地に適さない土地から少しでも多くの収穫をあげるため、江戸からはるばる下肥を運んできたりして、かなりの肥料を施したのです。この時代の肥料のなかでも、もっとも多く利用されたものは堆肥です。
堆肥は、小川村の周辺の入会地になっている雑木林から、落葉(くず)をかき、人が二人も入れるほどの大きな「くずかご」に入れて背負って帰り、下肥などをまぜて庭につみ、腐らせて発酵したものです。
この堆肥は、化学肥料のなかった時代の農家にとっては欠かすことのできないものであり、戦後まで青梅街道筋の農家には、積まれていたものです。
 
3.石灰伝馬継
このような苦しい開墾仕事のかたわら、小川の農民には石灰伝馬継の仕事が課せられていたのです。
小川村の置かれた理由は、先にも述べたとおり、青梅の成木などから江戸に運び出される石灰の運搬の役割を果たす為に開かれた宿であったので、小川の農民たちは伝馬の仕事をするために、荷馬の飼育を義務付けられ、交代で石灰の運搬にあたったのです。
 
小川村が、開かれた翌年、明暦三年(1657)江戸本郷丸山の日蓮宗本妙寺からでた火は、大名屋敷を焼き払い、江戸城本丸を焼失させ、大天守閣もその時焼け落ちたのです。
 

小平の歴史 ~小川九郎兵衛と小平村の開拓~

小平の歴史 ~小川九郎兵衛と小平村の開拓~
 
=小川九郎兵衛と小川村開拓=
小川村は、小平でも最も早く開かれ、最も大きな村で、 上宿・中宿・窪・坂・下宿などの小字に分かれており、東西 の長さは、一里(4キロメートル)にも及びます。
 
この小川村は、武蔵国多摩郡岸(しき)村(現在武蔵村山市大字岸)出身の小川九郎兵衛が、今から約320年ほど前の明暦2年(1656)江戸幕府に開発願いを出したのが、その開発の発端になったのです。
小川家は、もと戦国時代の雄後北条氏につかえた侍だったのですが、後北条氏が天正18年(1590)豊臣秀吉に滅ぼされた後、村山の岸村に土着して郷土(農民で武士の待遇を受けている者)になっていたのです。
 
この小川家出身の九郎兵衛は、玉川上水の完成、さらに松平信綱の命で、安松金右衛門が開さくして伊豆殿堀(野火止用水)の開通によって、開拓の第一条件の飲料水が確保できる自信を得て、砂川村から田無まで青梅街道沿いの荒地を自力で新田開発する決心をしたのです。
この際、小川九郎兵衛は、単なる新田開発だけにとどまらず、青梅街道における江戸城築城御用のための「石灰御伝馬継」の助郷の役割を果たす旨も代官今井八郎左衛門に願い出て、この願いも直ちに聞き届けられ、ここに小川村が発足したのです。
小川九郎兵衛の願いによって開拓が許可された新田には各地の農家の二、三男が集められたのです。
この募集に応じて集まってきた人々は、石灰御伝馬継に関係のある新田であることが、直竹村、小曽木村、成木村などの青梅付近の村々や、九郎兵衛の出身の岸村や狭山丘陵のふもとの村々の出身が多かったようです。
さて、小川村に入村する人々は、入村と同時に、開発名主小川九郎兵衛に、入村請書を出して契約して、開拓に従事したのです。小川九郎兵衛が、小川村のどの地から開拓に手をつけたかは、記録の上では明らかでありませんが、言い伝えによれば、鎌倉街道と青梅街道が交差するところから、鎌倉街道を北に約100メートルほど入った「石塔が窪」(小川二丁目)というところに久郎兵衛が最初に開拓の鍬をおろしたといわれています。
 
この地が今でも窪といわれるように、周辺に比べると、わずかながら低くなり、東側に傾斜した地形で、従って、地味もほかよりも肥沃で。かつ青梅街道(成木街道)と鎌倉街道が交差する交通の要地であることからも、この「石塔が窪」から小川村の開発が始まったという言い伝えも、一概に否定することはできないでしょう。
 
4.街道と玉川上水
武蔵野の真っただ中にある小平は、水に恵まれないために、永らく打ち捨てられていましたが、近世になって街道が整備され、更に、玉川上水が設けられて、その分水によって飲み水が得られるようになると、要約人が住み、開拓できる可能性が出てきたのです。
小平には、市を南北に横切る府中街道(所沢街道)と志木街道、東西に走る青梅街道(成木海道)、江戸街道(東京街道)、五日市街道の五つの大きな街道が通っています。
これらの街道は、いずれも小平の動脈であり、これらの街道なしには、小平の発達は考えられません。また、開拓を促したものに玉川上水の開設と野火止用水、小川用水などの分水だったのです。
天正18年(1590)八月朔日、秀吉の命に従って江戸に入った家康は、関東240万石の領主となったのです。これを「江戸御打ち入り」と称して、八朔(はっさく)(8月1日)は江戸時代、五節句に準ずる祝日になっていました。
家康は、江戸入府後、関東領国支配に力を入れ、三河以来の腹心の諸将を大名に取り立て譜代大名として、関東周辺におき、江戸の周辺は、徳川家の倉入り地(直轄地)と旗本などの知行地にあて、江戸命じるとともに、甲州の武田氏の遺臣の小十人組とその同心500名を駐屯させ、半農半士の生活をさせたのです。これを後に「八王子千人同心」といいます。
このように甲州にそなえさせた家康は、武蔵と甲斐堺の警戒に力をいれ、江戸と甲府とを結ぶ甲州道中(街道)を整備させる傍ら、甲州への脇往還(街道)として江戸へ奥多摩の石灰や薪炭を運ぶための通路であった、青梅街道(成木海道)と五日市街道を重くみなしました。
 
5.青梅街道
小平を東西に走り、小平市の軸となっているこの街道は、慶長年間に開かれた街道です。
新宿追分で甲州道中から分かれて、中野・荻窪を経て、田無・小平・村山を通って青梅に達して、そこからさらに多摩川の渓流をさかのぼり、大菩薩峠を越えて甲府に至る街道です。
江戸時代の初め、青梅の成木・小曽木などから産する石灰が江戸城修築のため、多量に使用されるようになると、この街道は、石灰を積んだ馬の往来でにぎわったのです。
しかしながら、そのように幕府と関係の深い物資を運搬する青梅街道にあって、田無と箱根ヶ崎の約5里(20キロメートル)にわたる間、つまり現在の小平のあたりは人家が一軒もないところで、人も馬も、暑さにつけ、寒さにつけ難渋したところでありました。そこで、交通量が増えるに従って、両宿の間に適当な立場(休み場所)あるいは中継宿を開く必要があるという声が、旅人や馬方からおこってきて、小川村を開かせる一つの動機になったのです。
 
6.江戸街道(東京街道)
この道は、小金井ゴルフ場付近から小平市内にはいり、西武新宿線を花小金井付近で横切り、小平第五小学校の東側を通り、花小金井を抜けて、清瀬に達し、小平を南北に横切る街道で今では小金井街道ともいわれています。
この街道は、青梅街道や江戸街道のように小川と江戸を結ぶ街道ではなかったので、その道幅も6尺から9尺程度で、荷車が一台やっと通れるくらいだったのですが、まだ田無が発達していなかった時代には、
この街道を利用して、野中新田や鈴木新田の人達が、麦・そばなどを直接入間川岸の志木宿まで持っていき、そこの穀物問屋に売り、その帰りに、肥料、農具一切、ムシロの類に至るまで、買ってきたため、かなり重宝がられていた道であったのです。
 
7.玉川上水と小川用水
小平の一帯は、武蔵野台地の中央にあるため、最も水に乏しく、一名、逃水の里とともいわれたくらいであったので、小平の地が開拓されるためには、飲み水が得られることが欠くことのできない条件であったのです。
その条件が充たされるようになったのが、玉川上水の完成だったのです。
天正18年(1590)に徳川家康が江戸城に入城して、江戸の地は、将軍のおひざ元になり各地から、大名や侍が移り住み、その侍を相手とする商人や職人が集まり、18世紀には、100万人を突破する、当時世界でも最大の人工をもつ都市になったのです。
ところが、そのような人口の過密化にともなって、色々と問題が起こってきたのです。
その中でも一番大きな問題は、江戸100万の人々の上水(飲料水)をどうするか?ということです。
家康が江戸入城の当時は、井の頭池・善福寺池・妙正寺池を水源とする神田上水が開かれて、これをもって江戸市民の上水(飲料水)にあてましたが、人口の増加とともに次第に飲料水の不足をきたし、四代将軍徳川家綱の時代承応2年(1653)に玉川庄右衛門・清右衛門兄弟に命じて、玉川上水の工事が始まったのです。
玉川上水は、多摩川を羽村(西多摩郡羽村市)に堰を築いて、取り入れ口をつくり、武蔵野台地を13里(52キロメートル)を素掘りで掘りとおし、四谷の大木戸まで引き、そこから3方に分け、この水を江戸市中の上水としたわけです。
この玉川上水は、小平市の南側を小川中島町から御幸町にかけて、東西に縦貫して流れています。
小平でも、小川村が開かれる当初、分水を受け、小川用水として、飲料用、灌漑用、防火用につかわれ、後には、この水を利用して水車をかけ、麦・栗・稗(ひえ)などの精製や製粉にまで使用されました。
また、中島町の分水口から、分かれた野火止用水(伊豆殿堀)は、東大和、東村山との堺を流れています。
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